基本的にはツイまとめ記事。
昨日ツイで見かけた興味深いやりとりと自分の思考のログ。他人のツイを貼っています。なにかあれば連絡ください。
発端はこの記事↓を紹介するツイだったのだけど、その元ツイが削除されたので、とりあえず記事へのリンクを。
これを受けて、「クラブで音楽聴けば批評家の言ってることなんてどうでもいいってことがわかるだろう」(自分の意訳です。元ツイは削除済み)(以下ではこのツイを①と呼びます)というような主旨のツイートがまた為されました。
真下に貼ったツイはその①のツイに対する反応です。
そもそも現場に行けば分かるというのが相当幻想に近い部分があると思うんだよね。いわゆるヒットナンバーしか聴かない大部分のリスナーをクラブにぶち込んだところで大した啓蒙にはならんわけで。
— 李氏 (@BLUEPANOPTICON) October 2, 2022
現場主義は「現場」という空間の特殊性を単に称揚するだけで、その射程、普遍性の問題はあんまり考えてなさそうなのが嫌なんだよな。実際人々が音楽を受容する空間としての現場はごく一部のそれでしかない訳じゃん。
— 李氏 (@BLUEPANOPTICON) October 2, 2022
で、ここからは自分の反応。まず記事自体に対する反応。
書いちゃうけど、「自分の感性の深掘り」が必要。「(自分は)本当に好きなのか?」「本当に良いと思っているか?」というところを突き詰める。これができてれば他人の評価は怖くない。まあここを言語化しようとすると知識が必要になってくるけど…
— にんず (@ninz51) October 2, 2022
(以降はツイートを貼る操作がめんどくさいので楽なコピペにします。)
これはマジでそうじゃないですか?(この部分は今書いてます) 記事では「自信が必要」という意見が出たときになんかすごい拒否反応みたいなのが出てますけど、でも結局「自信が必要」という考えにたどり着いてしまわないですか。記事中で最後まで代案が出ないことをその根拠に……とはしませんけど、時間をかけて考えても結局そこにたどり着いてしまうと思う。
そもそもの話、「無視」って行為はちゃんとした選択の産物なんですよ。もろもろを考慮して問題がなかったときにはじめて心から無視することができる。……たとえば他人からなにか意見をいただいたときに、その意見について吟味して、その意見に理があるなら受け入れればいいし、理がなければ無視すればいい。
理があってもなくても、コスパとかの事情で無視する場合もあると思いますが、その場合でも無視するには「無視した方がいい」という結論に自分で至らないと……吟味、判断というプロセスを経ないとダメなんですよ。ダメというか、できないじゃないですか。
そういうような吟味や判断というプロセスを「経ない」無視は、善性や学習能力を持った人間にはできないんじゃないか。もしかしたらそれができる人を悟った人とか狂人と呼ぶのかもしれないですけど。
だから……話を戻せば、なにかを「気にしない」「無視」するためには自信が必要なんですよ。知識や情報が必要。それらを伴わない無視を求めることは「自律した思考を放棄しろ」と言っているに等しい、と言えるのでは。
で、繰り返しになるけど、元の記事でなんであんなに自信に対して拒否反応が出るのかやっぱわからない。これって別に二元論的な……勝ち負けの話じゃなくて、人間の尊厳の話じゃないですか? 人間が人間らしくあるためにはどうしようもなく自信が必要というか。自信の話から二元論やポジショントーク概念に即座に繋げちゃうのはやや短絡的なのでは。(というかここにも「アート的なるものに対するコンプレックス」と同様の「競争に対するコンプレックス」があるように感じる)
話を戻します! 続いて①のツイに対する自分の反応。①って書いてももう忘れてるよね。「クラブで音楽聴けば批評家の言ってることなんてどうでもいいってことがわかるだろう」(意訳)というツイです。
(この部分に関しては、削除された元ツイにはもっといろんなニュアンスが含まれていたので、それを確認できないこの記事だけ見てる人にはあまり伝わらないところがあると思います。まあ雑文&ログ記事なのでね…)
強烈に偏った価値観が堂々と存在している様子を見て勇気づけられるみたいな感じだろうか こんなんでもいいんだぞ、というか
— にんず (@ninz51) October 2, 2022
批評家の提示する評価軸なんてこの世に無数にあるうちの一つでしかないんだぞ、ということを(強引に)認識するためのクラブ体験、みたいな感じかな
一番最初のツイ的には、「音楽の(新たな)良さを見つけるためにクラブに行け」という意じゃなくて、「多様な評価軸が存在していることを感じるためにクラブに行け」という意なのでは まあツイートした本人にしかわからんけども
……と、ここで終わればまあ綺麗なんですが。削除されたツイには「多様な評価軸が存在していることを感じるためにクラブに行け」という意もありつつ、また別に「視聴環境としてはクラブが最高だろ」という意というか信仰のようなものが含まれていたらしい、ことがこの時点で個人的に判明しまして。
でここから元の記事(「他人の前言語的確信を損なってポジション取りするの禁止な」)をガン無視した、「視聴環境(再生環境)としてはクラブが最高なのか?」という問に対する自分のうんこ思考が始まるのでした。ここからは本当に自分が一人でうだうだ呟いているだけです。
自分自身はインドア派なんで少しもやっているけど、まあ出音に限ればフロア優位……なのかな フロアと同等の環境は他でも作れるとはいえ
— にんず (@ninz51) October 2, 2022
自分自身に限って言えば、出音以外の外部要因が感受にめちゃ影響しちゃうので、フロアという択はまず除外されるんだけど(繰り返すけど自分の話) 家で大音量で聴ければいい
いやでも身体で聴く音楽じゃなくて頭で聴く音楽のようなものもあるような気がする あったとして、それも大音量で聴いたら結局同じでは、というのもあるけど…
究極的には「フロアで大音量で聴くことで損なわれるなにかがあるかどうか」という問題な気が どうなんだろう(行かないのでわからない)
そもそも、出音以外の外部要因を俎上に上げるかどうか、というのもあるけど クラブ以外のシチュエーションの方が映える曲なんて無限にあるけど、そこまで考慮しちゃうと絶対に収集つかなくなるから
音量が小さいと単純に聴き取れない音とか出てくるわけだけど 逆に音量がデカすぎることで聴き取れなくなってしまう要素とかが、存在していてくれないかなあ~という、願望…
聴き取れない、まではいかずとも、感じにくくなる、くらいのなにかをよ…
不毛だわ そんなものはない、とした方がいい フロアを下げるんじゃなくてフロア以外を上げろ 自宅に音楽室を作れ
生演奏ならそれ用に音響を調節したホールとかあるけど、今回のは録音・複製されたものについてなので
まあぶっちゃけ言えばクラブとか現場的なものに対するコンプレックスがあるよね だからこんなにうだうだツイートしてる訳 まあお互い様なところもあるんだろうが
強いて挙げればフィジカル的な快感に流されて、フィジカル以外に訴える要素に対する感受がおろそかになること、くらいな気がするけど、それって環境による問題というよりは聴き手側の問題だからな…(フロアでも楽曲やサウンドの分析はできるやろ、という話です)
まあ楽曲の分析に集中するためにでかすぎない音量で聴く、みたいなのはあるような気はするけど
視聴環境考、こんなもんでしょ 家に音楽室作れ、で終わりです 順序的には家に音楽室を作れないからクラブに行く、ってのもあると思うし
ここでツイート終わり。以下は布団の中で考えたことです。
クラブで大音量で聴けば、それはもう身体全体で音楽に触れることになるわけだが、そもそも耳以外で音(振動)を感じる必要ってある? 音楽を表現として捉えるのなら、音のニュアンスを細かく捉えられない耳以外の部位で感受する必要はないのでは。まあそれとは別に、マッサージ的なものとして身体で感じるのはぜんぜんアリだけど。
(とはいえ、クラブで大音量で、身体全体で聴かれることを想定して作られた音楽も確実にあるので、切り分けて考える必要があると思う。)
音楽を表現として捉えるのなら……音量による聴き逃しが起きない程度の音量で聴くならばなんでもよいのでは。それならかなり間口が広がると思う。クラブは確かに余裕で条件を満たしてるけど、クラブ以外の多くの環境でもクリアとできるのでは。
この場合、クリアの基準は楽曲ごとに異なる。何度も例に挙げて恐縮だけど、たとえばPink Floyd「Fat Old Sun」なら冒頭の鐘の音や、1番コーラス前の子どもの声とかが聴こえる音量なら良いのでは。
音量があるなら再生周波数帯域もある。特にベースは聴こえるかどうかで音楽の印象がめっちゃ変わってしまうので…。
結論として、クラブの環境はめちゃいいし、クラブ向けの音楽もあるけど、クラブのそれに劣らない環境もそれなりにあるのでは。という感じ。しかし自分はオーディオの専門家でもなんでもないので厳密にはどうなのかわからない。
長くなったのでもうこれで終わりにします。無視について、けっこうコストの高い行為なことが判明しました(結局吟味・判断のプロセスが必要なので)が、そのコストが嫌ならば、そもそもの発端を認知しないようにするという手があるかもです(手かなあ?)。無視を選択しそうな事案についてあらかじめ警戒しておいてそもそも視界にいれないようにする。つまりは「先行ブロック」です。ツイッターの話題になっちゃった。世知辛い~。いいのかこんな終わりで。(おわり)