「いわゆる」の意味と個人的な「キモオタ」忌避について

 雑文です。文フリ直後に書くようなことではない気もしますが、今書かないと忘れるので…。

 

 

 文フリ翌日の夜、入眠に失敗して布団の中でgdgd過ごしていたのですが、そこであるツイートが目に入りました。

 

 

 このツイートを見て自分はなぜか動揺し、衝動的に発言者さんにDMで質問を送ったのでした。

 

自分:

キモオタという呼称を使っているのを見て少し驚いたのですが、唐木さんはオタクとキモオタという言葉をどう使い分けているのでしょうか。キモオタの具体的なイメージ像ってあるのでしょうか。
「いわゆるキモオタ枠」の具体例を教えてほしいです。(唐突にすみません。無視してもかまいません)

 

唐木元さん:

キモオタと自認ないし自称してる人のことです。キモオタと書かず「いわゆる」「枠」という持って回った表現を用いている意図を汲んでください。

(ツイートとDMの引用については本人に許可を取りました。)

 

 

 「いわゆる」とは「世間で言われている」という意味で、「いわゆるキモオタ枠」は「世間で言われているキモオタ枠」となる。最初に載せたツイートはキモオタのパブリックイメージに対する言説であって、そのパブリックイメージは唐木さん一人が決めている/決められるわけではない。

 

 自分はこの「いわゆる」という語の意味を取り損ねていて、唐木さんの中に具体的なキモオタのイメージがあるのかな、と思ってDMで軽率に質問してしまった。唐木さんが具体的なキモオタのイメージを持っているかは定かではないが、「いわゆる」という語を使っている以上は、「自分の中のキモオタ像」について話しているわけではないことは明確なのだから、自分の質問は少し筋違いだったなと思う(「世間で言われている」の「世間」に唐木さんも自分も含まれていると思うので、100%筋違いというわけでもないかもしれないが)。

 

 

 

 それよりも問題なのは、自分がこのツイートを見て(衝動的にDMしてしまうくらいに)動揺してしまったことで。少し考えてみたところ、どうやら自分はキモオタという概念・言葉を忌避しているらしいということが分かった。

 概念からしてネガティブなものが組み込まれている……ということはもちろんあるけれど、特にその語が使われるシチュエーションに対して自分は嫌悪感を持っている。対象を罵倒・嘲笑するような使い方しか想像できないからだ。

 

 他にも似たようなイメージの言葉ってあって、例えば「常識」。概念としては便利だけど、それが使われるシチュエーションのほとんどは「人を叱る」といったようなネガティブなものではないか。できるできないという話なら、もちろんポジティブな意味合いで使うこともできるだろうけど、現実にはあまりその機会は多くないと思う。

 自分としては常識なんて語は使わずに具体的な話をするべきだと思っている。常識という概念はあるていど抽象的なので、その有無だけを問われたところで具体的なポイントは伝わらない。そういった考えがあって自分は常識という言葉を避けている。

 

 言葉は人間の使う道具なので、言葉を避けることはそれを使う人間を避けるということにもなる。

 

 自分が常識という言葉を避ける機序と似たようなものがキモオタという言葉に対しても働いている。自分は無意識レベルでキモオタという言葉とそれを使う人を避けていた。それが今回、自分の尊敬している人の口から出てきたことがショックだったのだろう。

 このショック自体は筋違いなもので、ちゃんと文章を読み込めば唐木さんがキモオタという語をネガティブな意味で使っていないことは分かるのだけど、自分は信じられないものを見たような心地で地に足の着いた理解をすっ飛ばしてしまったのだ。

 

 もう一つ、自分の文章理解を妨げたものとして、「キモオタを自称する人が想像できなかった」ということがある。無意識レベルで避けていたこともあって、そういう人が存在するということに本当に思い至らなかった。

 想像できなかったというよりは、(自分の中で)前提として「そのような人は存在しない」としていたところがある。というのは自分がキモオタという概念にポジティブな意味を見出せていないからで……そしてその下には「意味のないことをする人なんていない」というような個人的な信仰がある。自分はキモオタを自称することにポジティブな意味はないと思っているし、また人間はポジティブな意味がないことはしないとも思っている。そのような思考・思想が組み合わさった結果、「キモオタを自称する人は存在しない」という前提を持つに至ったのであった。

 

 だから……なんというか、ツイートされた文章の意味を文字通り頭から理解できなかったのだ。改めて初見時の反応を再現すると、(「いわゆる」もなにもそんな人たちなんて存在してないじゃないか。なにを言っているんだろう?)というような感じになるだろうか。キモオタという存在は、誰かが誰かをキモオタという語を使って罵倒・嘲笑するときに初めて・一時的に存在するものだと思っていたのだ。

 

 無意識で持っていた前提の段階で間違っていたということだった。そして改めてネットで検索してみるとキモオタを自称する人が実在することがわかる。う~~~ん、いるんですね……。オタクならまだわかるし、なんなら自分も自認しているところがあるのだけど、キモオタ自称はいるとは思わなかった。悪口の中でもかなりキツいものだと思っていたし…。

 

 彼らがなぜキモオタを自称するに至ったのか、ある面ではオタクの上位互換のようなイメージもあったりするのだろうか、またそもそもオタクという語の現在のイメージはどのようなもので、これまでにどう変化を遂げてきたのか、など。いろいろな疑問が浮かび、それらを考えることもおもしろそうではあるけれど、それなりの長さになったし疲れたのでここら辺で切ろうと思う。

 冒頭で引用したツイについて、「いわゆるキモオタ枠」以降の部分にはまったく触れられていないことが申し訳ない。自分は前述のようにキモオタという言葉・概念を観測しないようにしていたので、その言説の信ぴょう性を評価できない。しかし、どのような層の人であっても、反差別や反排外思想が普及することはポジティブなことだろうと思う。唐木さん、DMでの丁寧な対応ありがとうございました。

 

 

 

 

20240522追記

 この記事に対して唐木さんが反応を返してくれました。これを読んだ方が大元の発言(この記事のあたまに貼ったツイート)の真意が掴めるので、以下に追記しておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それを受けての自分の反応ツイートも貼っておきます。手間なのでこっちは簡易引用。

 

自分にはバイオレンスなものを避ける無意識の動きがあって、それは普段そのBの領域に対しても働いていると思う
記事でまったく触れてないからそうなんだけど、主にその領域の話だったとはまったく思ってなかった

 

そういう領域がまともな倫理観(ととりあえず呼ぶけど)と真っ向から対立していて だから倫理的な立場をとるならその呼称から「キモ」を取っちゃいけないんだな 使い慣れないけど…

 倫理的なマズさが伝わるなら「キモ~」意外の表現を使ってもいいのだけど、「キモ(=気持ち悪い)」が一番伝わる気がする。し、その「感覚的に悪い」ということが重要のような気もする。

 

今まで言及しなかったけど、まあ篠澤広の体躯なんかはそういう領域の入口なんだろうな ……

 学マスを……始めました……

 

毎回、具体的に主語を示してもいい(ある面ではそれが理想とも思う)けど、公共の場でそういう領域を具体的に示すこと自体がアレという うーん…

 

だから今回はっきりと言葉にしてもらったことはありがたいことだと思う

 

 そんな感じです。DM送った当初はビクビクしていましたが、改めて振り返ると送ってよかったと思えました。

 自分の中には「臭い物に蓋をする」精神が普通にあって、まずはその臭い物を直視することが大事なんだろうなと思いました。難しいですが。

 唐木さんのものに限らず、過激に見える発言の(表面的な)過激さって、いわゆる臭い物に向かい合った結果として生じている(というか読み手が勝手に感じている)ことがあるんだなと思いました。うまく言葉にできているかはわからないです。