イラスト鑑賞のミクロな流れについて(イラスト奮闘日記#2)

 このブログに音楽の話題を求めている人にはまったく訴求しない記事シリーズ(続くかは不明)。なんだかんだで自分にとって新しい分野に手を出すのはおもしろく、その過程で副産物として記事もできてしまう。個人的な思索を殴り書きした記事です。

 

 

 ツイッターには無限にすごいイラストが流れてくるのですが、おかげで目や感性が鍛えられた結果、前回アップしたイラスト(その時点ではそれなりに自分で満足していた。だからアップもしたし…)もだんだんとくすんで見えるようになり……だからまた同じくらいの時間(二日くらい)をかけて同じイラストをブラッシュアップしました。

 

 

 

 

 

 

 前回のバージョンのものも貼っておく。

 

 線や塗りを丁寧にしたり、帽子・太陽光・ボラード(と呼ぶらしいです。左下の黄色い、船を繋留したり車止めに使われるやつ)を描き加えて、カニとコンクリの足場も調整して全体的に三角形の構図にしたり……けっこう頑張って加筆修正しました。

 努力のかいあって、前回のものと比べるとかなり良さげに見えるようになったと思います。なんとなく、見ていると無意識に視点がよりディテールの細かい頭部に向かう感じがあるような気がする。それには情報量の影響はもちろんだけど、三角形の構図も少~しは寄与しているように思う。やっぱ自分はゼロからなにか作るより、元からあるものに手を加える方が得意だな……なんてこぼれ話は置いといて。

 

 ……それでも、ツイッターを眺めてしばらくすると(まだまだだな~)と思えてきてしまう問題。ツイッターマジですごいイラストばかり流れてくるから……絵の分野に限った話ではないけど、基本的に修羅の世界だよなと思う。それでもまあ、しばらくはイラスト方面にコミットしてみようかなと思っていますが。まだ作業自体楽しめているし。

 

 

 

 

 

 とまあ、ここまでが前段。ここから本題。昨夜、よく眠れなかったので、イラスト関係の物事について布団の中で少し考えたのですが、その思考を少し書き残しておこうと思います。発想のベースは今回のイラストをツイにアップする前日に行われた、仲良くしてもらっている方との作業通話での自分の発言です。ということで以下殴り書き。

 

 無意識レベルでの情報量察知について。

 すごいミクロな話。0.1秒にも満たない時間に無意識レベルで行われてる、絵の鑑賞の流れについて。はじめに結論?を書いちゃうと……自分たちは、その時点では自分がはっきりと認知していないなんらかの存在を感知して、そこで初めて眼の焦点を合わせる動作をしているのではないか、という話。謎を感知→ピントを合わせてしっかり見る、という機序・順序がちゃんとあるのではないか。そしてそれは絵などを鑑賞する際にも細かく何度も行われているのではないか。……という、そんな話です。当たり前の話でもある。例えとして「PCのモニタに小さいゴミが付いてたとき」とかを思いついたけど適切かどうかは謎。

 絵を見るときの流れとして、始めはピントが合っていないと思う。おそらく、主体のデフォルトというか一番楽な焦点距離を維持していて… その状態のまま絵を視界に入れる。そのようなピントの合ってない状態(情報を100%は拾えてない)で鑑賞して…… その時点で満足したり感動することもあるけど、たいていは(よくわからんところがあるな)と感じる。そして改めてピントを調整し、より精緻な鑑賞を始める。
 この(よくわからんところがあるな)というのが無意識レベルでの情報量察知で。つまりこの絵にはまだ自分が掴めていないものがある、まだ魅力があるということ。これを繰り返して……絵に近づいたり離れたりして鑑賞することになる。そして、これ以上この絵からは得られるものがない、すべての表現や情報を認識した、と感じたとき鑑賞は終わり。次の絵に行く。

 

(こんなように書いてますが、あくまで自分の絵の見方というだけで、一般的な話かどうかは分かりません。まあでも眼の構造上……ピントを合わせないとものがはっきり見えない以上はみんなこんな感じで見てるのではとも思う。)

 

 つまり、絵をじっくり鑑賞させるには、ピントが合ってない状態で見てもわかるくらいに情報に溢れていなければならない。まだ拾えてないものがあるな、と感じさせて初めて鑑賞が継続する。おそらく現実の絵画では、絵の具などの立体的な塗りなど、マジでミクロなところまで無限に情報が詰まっていて(現実世界なので当然ではある)、だから鑑賞もその分長く楽しめるのだろうが。まあデジタルはその時点である程度情報量が削られているとも言えそうだけど。

 ということで、インターネッツで自分の絵を素通りさせないためには、なんにせよ情報量を増やすこと。増やし方にもいろいろあるが、初心者向けなのは色で足す方ではないか。基本、足し算のみでいける気がするので。線に情報を足す、あるいは線で情報を足す方向にいくと、例えばアニメーターとかデザイナーとかの方向性になるか。

 

 けっこう……やはり人間の脳は強くて、なにかあるときにはそのなにかが確定できないまでも、なにかが存在しているということは感じるし。ないときにはないとはっきり感じる。つまり、均質な(アニメ)塗りはわりとすぐにそうと看破できる……ということが自分が前回アップした、つまり修正前のイラストを見れば分かると思う。そして看破したらその時点で鑑賞は終わる。ある意味、クイズとか謎解きとか、そういう概念にも近いかもしれない。なにが、どう描かれているのかを捉える問題。絵の一つ一つが。難しい、よく描き込まれたものほど長く楽しめる。

 

 まあ他人が世界を(物理的に)どう見ているのかは分からない……音と同じように、認知にはかなりの個人差があるだろう。とはいえ、客観的な指標の一つとしては写真があると思う、ので、現実世界の写真と同じくらいには情報量を込められたらいいなと思う。同じくらいにはとか言ってるが、本当にできるか?

 特に自分は写真を基準にしている……というか資料を活用するスタイルではあるのだけど。もはや資料通り……ではなく、資料にない情報もどんどん足していいのではと思っている。視覚情報の処理速度にも個人差があると思うが。そもそもが現代には作品が溢れているし。とにかく一瞥してスルーされないようにしたい。だから一目で情報多っと感じさせるくらいに…… その上で絵画、作中世界として矛盾なく… まあ矛盾しててもいいが、多分それを意図的にやるとアートになる。

 

 蛇足だけど、これに関連する話として。だから10年代前半とかは主体のピントを合わせにくくする……ピントが合ってないと錯覚させるような技法、表現が流行っていたと思う。赤緑のブレ……色収差(色ずれ)を使った表現とか。Fennesz『Becs』のジャケットとか、なにがどうなってるのか分からないアートワークも、つい気になって眺めてしまう。現実世界の物理法則からはみ出てる表現とかも、現実世界を理解の補助として使えないので見ちゃいがち。

 

 

 

 そんな感じです。雑文なのであまり気にしないでください。終わり~