The Beginner's Guide(2015)感想・評価

 ゲームを通じたコミュニケーションと承認欲求の在り方を描くウォーキングシミュレーター(人によって解釈は違うと思います)。

 

 

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評価:10 /10

プレイ時間:2時間

 

 

 

(ゲームの内容紹介はあまりしません。2時間もせずにクリアできるので、良かったら以下を読み進める前に一度プレイしてみてください。)
(また今回は一筋の記事としてまとめるのが大変だったので、箇条書きみたいな感じにしてあります。)

 

ゲーム「The Beginner's Guide」の解説・考察|魚雷女

 ↑こちらの記事を踏まえた内容になっています。さらっとでも目を通しておくと以下の文章が理解しやすくなると思います。

 

 

 

 

 

 

・Codaの作るゲームの、数々の奇妙なアイデアと未完成な在りようからは創作意欲が刺激される。作り手としての初心のようなものを思い起こさせる。ゲームなんて作ったことないけども。

 

・作品がフィクションか現実なのか(Daveyがやっていることは犯罪ではないのか)という問題はここでは気にしない。プレイヤー視点からすればそれはどこまでいっても他人事だからだ。究極的にDaveyとCoda二人の問題であって、なにかあればCodaが法的手段を行使するだろう。それだけの話だ。Codaに対する同情(?)や倫理的な観点からDaveyを糾弾する動きはもちろんあってもいいとは思うけど……ただ、このトピックで盛り上がることに自分は価値を感じない。
 そもそもの話、フィクションかどうか以前に、ぼくらは「Davey Wredenがディレクターを務める、Everything Unlimited Ltd.開発の『The Beginner's Guide』をプレイしている」という確固たる現実がある。これだけが事実だ。この前提がある以上、『The Beginner's Guide』はDavey Wreden(Everything Unlimited Ltd.)のゲームだと捉えるべきだし、ひとまずの感想・評価はCodaではなくDavey Wredenに向けられるべきだし、フィクションかどうかはDaveyたちに確認するしかない。Daveyたちを介さずにこのゲームがフィクションかどうか議論することには意味がない。意味がないというか、永遠に答えは出ない。

(蛇足だが書いておくと、フィクションかどうかは作品のおもしろさやリアルさにまったく関係がない。どこにリアルさを感じるかならまだしも、フィクションかどうかの議論やそれを明らかにすることは作品のおもしろさの解明になんら寄与しない。フィクションかどうかばかりに注目する人はおもしろさのセンサーがどこかズレていると思う。)

 

・Codaが作るゲームは途中からプレイヤー(というかほぼDaveyだろう)に対するメタ的な言及のように取れる内容が増えていく。
 「家」以降のゲームはすべてDaveyをプレイヤーとして想定していて、ゲーム中で起こる出来事はDaveyとCodaの現実のコミュニケーションや、CodaのDaveyに対する印象・心の動きを戯画化したものだと解釈できる。「劇場」や「機械」なんて、この構図をインストールしてから見返すと本当に直接的な告発のように映るのだけど、DaveyにはCodaの意図は伝わらない(「劇場」において、Codaは自分を世界から切り離しているのではなく、DaveyをCodaから切り離そうとしているのだ)(他人の比喩であるコーンが、触ると弾かれてしまうことにだって、本人に直接は言いづらいようなメッセージが込められているのかもしれない)(女王はDaveyだし、記者たちはDaveyがゲームを配布した友人たちだし、機械は直接Codaだと作中で言及されている)。そして先に言ってしまうと、このコミュニケーションの齟齬こそが本作のメインとなるおもしろさだ。

 

・自分はCodaの控えめだけど真摯で手の込んだコミュニケーションのあり方に感動してしまう。残念ながらそのメッセージ性はDaveyには伝わっていない……Daveyはゲームをメッセージやコミュニケーション手段ではなくあくまで「ゲーム」と捉えているからだ。それゆえに「塔」にてCodaはとうとう言葉で直接的にDaveyにメッセージを綴ることになり……そしてそれを最後に二人の関係は終わりを迎える。

 

・このゲームを満足に体験するには①実際にCodaのゲームを体験すること、②Daveyの解釈を聴くこと、③自分でCodaのゲームを解釈すること、この3つをこなさなければならない。どれも一筋縄ではいかないのに、それらを同時になんて聖徳太子じゃあるまいし……ということで理解を深めるための複数回のプレイも有効で、新たな視点がまた新たな味わいを生み出してくれる。
 というか自分が今書いているこの文章が、一度ゲームをクリアして事の真相を知ってから改めて全体を俯瞰して出力されたもので……。一周目は構造上どうしても自分の純粋な感想よりもDaveyの解釈の方が先行してしまうので、受ける印象がDavey視点寄りに歪んでしまうのだ。だからある意味では、本作の本当の体験は二周目から始まると言ってもいいかもしれない。そしてそのDavey寄り視点→(想像ではあるが)Coda寄り視点という自分の見方のドラスティックな変化も本作の主要なおもしろさの一つである。

 

・Daveyは実際のプレイヤーのプレイに合わせて、Codaのゲームの自分なりの解釈を語ってくれるが……それはどこまで行っても(Daveyの内なる欲求に突き動かされた)一面的なもので、プレイヤーはDaveyとCodaのディスコミュニケーションを延々と見せられることになる。

 

・このゲームにはいろんな要素があるけど、自分としては究極的にはコミュニケーションの話だと思っていて。二人のすれ違いはすごくドラマチックだし。破綻に至るまでコミュニケーションし続けたことだってすごいし(現実世界で他人と絶交にまで至ったことがはたして何度ある?)。だからこれはある意味では……自分のレンズを通したら一種の「青春もの」のようにも見える。ある人物たちが出会い、なんとか自分なりにコミュニケーションを試し、そして終着に至るまでを赤裸々に誠実に描いた、とてもリアルかつ普遍的な人間ドラマ。終盤のDaveyの語りは大げさとかそういうんじゃなくて、真にエモーショナルなんだ。

 

・ゲームに限らない、人間の芸術活動全般についての話でもある。本当に普遍的で多様なトピックが埋め込まれたゲームだ。

 

・「家」でCodaが感じた断絶・絶望の深さはいかほどだったのだろうか。「家」の住人が言うように、この家は明らかに(Codaの)心の比喩で……そして「塔」でのDaveyの弁を踏まえて改めて流れを考えると、ラストの「これ楽しい?」は明らかにDaveyが組み込んだ処理で(だからDaveyからCodaへのアンサーだ)……。それまでのようにプレイヤーにEnterキーも押させずに強引に処理してしまう。Davey的には「家」のこの内容で平穏に至った……満足し、嬉々としてDaveyにプレイさせてきたCodaに困惑し、苛立ちすら感じていたのではないか。 申し訳ないけど、ここでの二人のすれ違いようでご飯が何杯も食えてしまう。こんなドラマチックなことってない。

 

・Daveyにも悪いところはあるけれど、Codaにももちろん至らないところがある。「脱出」までに自分でたどり着き、「家」にて(ゲームという一線引いた形でこそあれ)実践した「自分の気持ちをただ正直に伝える」ということ。それをなぜ現実世界でDaveyに対してできなかったのか。…でもこればっかりは言ってもしかたない。Codaがそういう人だったから。別段この性質をアーティスト全体に当てはめるようなことはしないけど、でもゲームを、自分の表現を強く信じているからこそ譲れないポイントだったのかもしれないなとは思う。

 

・最終的に破局に至ったことは寂しいけれど、それまでに互いに通じ合おうとしたことはどこまでも尊い。そしてCodaにとってもDaveyにとっても、コミュニケーションの欲求は強いモチベーションであり、また諸刃の剣であった。
 「ゲーム」をどういうものと捉えるかで(それこそDaveyとCodaのように)評価が分かれる作品だと思う。ここに書いた自分の解釈はあくまで一つの解釈でしかなく正解でもなんでもない。本作をブラックジョークや悪ふざけのように捉える人もいて、自分はそれは内心どうかと思っているけれど、でも自分のこの解釈も「物語」に寄り過ぎたものとは感じている。
 そんな俯瞰した視点を踏まえて——改めて本作は傑作だと思う。ドラマチックなストーリーと、それをゲーム内ゲームとして昇華し伝える手腕。ゲームでしかできない表現の詰まった芸術的な一本だと思う。デザイナー的にはやはりCodaの作ったゲームが、つまり内心をゲームで表現する部分がすごいんだろうと思いますが、個人的にはそもそもDaveyとCodaという二人の人物の心の動きをこれ以上ないほど精緻に捉えたことがすごいと思います。無限に解釈できるし噛めば噛むほど味が出る。優れた芸術作品ですね。